坂本龍一 「千のナイフ」より

身を汚すことの快美。          
男娼願望。               
その最高の段階は、ファシストの少年、とい
うところかな。この世の一切の栄光と快楽を
与えられている訳だから。しかも危険この上
ない。                 

B-3のcodaの弦楽斉奏はその暗示。    
例えば、免許とるとか、洒の飲み方覚えると
かって全部そうなのです。だから、これは社
会学である訳。無希望の社会学。     
日本はヘンな国だ。日本の文化はオカシイ。
純粋培養。               

いつもこの世の悪を意識してなくてはだめだ
と思う、生き方として。だから、私は瞑想し
たいのだけれど、しない訳です。悪を思考で
きなくなるのが嫌なのです。       
私はアンチ・ロマンでもないし、反心理主義
でもないし、機能主義者でもない。だって目
的は無いのだから。           

誰かのためになるなんて思って音楽作ってい
る訳ではない。(現在どんどんつくられている
音楽のほとんどがそうなのだけれど。)ただ、
自分のため、なのですね。社会的な自分のた
め、社会に登録されるというだけのため、小
権力が分配される訳でしょう。何もしなけれ
はただ雇用されてるだけだから。要するに、
 使用人が小さな店をもたせていただいたのね、
だんな様に。そうすると、こんどは自分が使
用人の3人を雇って店を維持していく訳です。
みんながやっていることと同じ、それだけ。

このままいって、音楽の世界にsynthesizerが
もっと普及して、音楽のつくり方が、私なん
かか今やっているようなデジタル的な方法に
変化していくと、耳が変ってしまう、決して
いい方にではなくて、そうなると伝統的な感
性の文化的拘束力が勝つか、テクノロジーが
勝つかの戦いになる。どうやら「瞑想」って
いうのは、今まで諸々の文化メディアが荷っ
てきた、意識の自己再活性化機能を人為的に
テクニカルにコントロ-ルしようってことだ
から、社会的に云えば、自己検閲済人民抑制
 法だと思う。そうなるとやっぱりこれからは、
アポロンとディオニソス的な精神界の戦にな
る。自分をひたすら自動反射ロボットにしよ
うという志向と、自己の精神で天上を披って
しまおうという志向との戦いですね。前者は
すこく健やか、後者は敗北主義。しかしなが
ら、ヒットラーは後者に属している。後者に
とって前者は使用人にするのに最適だ。そし
て、どっちも嫌だ、という第三勢力である分
裂症群がいる。私はここにいる。こういう輩
 は音楽産業とか牢獄とかに幽閉されるだろう。
軽度でガードマン、中度でミュージシャン、
重症だと病人、というわけ。       

だから音楽で人を救うなんて絶対できっこな
い。救われないと思っている奴らの嘆き節な
んだから。かくいう私の音楽もまさにこれで
すね。立派に嘆きたいと思っていますよ。ど
うせ落っこってくるのだから。      

嘆いて、救われないということすら忘れてい
る、救われない人たちに、その救われなさを
 一緒に歌ってほしいと思っている。ホントは。

一緒に死んで下さい。     -1978.10-

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